日语标准的书写方法指导我们学习日语这种语言,既要学习这种语言的组成,又要学习这种语言的书写方式。
有时候我们掌握了正确的书写方式比我们掌握它的别的方面的知识都更重要。就比如我们写日语作文的时候,首先映入阅卷老师的眼帘的就是我们的书写。如果写的好,可能印象分一下子就是上去了。这样,我们的总体的分数就上去了。所以,写好才是最重要的。下面就是沪江小编分享的日语书写的规则,大家要好好的掌握。日本语は縦に书くこともできるし、横に书くこともできる。同じ内容を「である体」で书くこともできるし、「ですます体」で书くこともできる。TPOさえまちがわなければ、その选択は书き手の自由と良识にまかされる。日语书写可纵可横。同样内容可写成“である体”,也可写成“ですます体”。只要时间地点场合没错,写法可任由书写人自由判断选择。文字づかいやテンの打ちかたにいたっては、书き手のお好みしだいである。至于文字选用和标点打法就更是因书写人喜好而定。かな文字主义者が、「きのうおとなりさんからおいしいいちごをいただいたのでこどもたちにたべさせました」と书くところ(分かち书きの方式は复数あるようですが)を、汉字好きの人なら、「昨日、お隣さんから美味しい苺を顶いたので、子供达に食べさせました」と书く。假名文字主义者会写(词语间分隔开的写法有多种)“きのうおとなりさんからおいしいいちごをいただいたのでこどもたちにたべさせました”,而喜好汉字的人则会写成“昨日、お隣さんから美味しい苺を顶いたので、子供达に食べさせました(昨天邻居家送了好吃的草莓,我给了孩子们吃)”。むろん、この両极端の间に多くのバリエーションがあるし、人によっては「いちご」のところを「イチゴ」と书くかもしれない。当然,在这两种极端之间有着诸多变种,不同人可能会有把“いちご”写成“イチゴ”的。かくして、この短い文でも书きかたは十人十色になる。つまり、日本语の书き手は中身以前の段阶で、すでに个性や创造性を発挥することができるのだ。英语や中国语やタイ语でオリジナリティを発挥したければ、中身や文体で胜负するしかない。因此,这篇短文的写法也是各不相同。也就是说,日语书写人在内容之前的阶段,已经能发挥出个性和创造性。如果想用英语、汉语或泰语来发挥创造性,只能靠内容和文风来决胜败。ただし、自由や多様性、というのはでたらめやいいかげんの别名でもある。只不过,自由与多样性也是胡来和随性的别名。そこで、书きことばは社会基盤のひとつであり公共财でもあるのだから、あまりにまちまちで野放図なのはいかがなものか、という考え方も当然ありうる。因此,书面语言既是社会基干之一,也是公共财产,所以当然也有看法认为放任其出现这么千差万别的局面实在有问题。梅棹忠夫さんなどはかねてから、日本语には正书法がない、世界の文明国で正书法がないのは日本语だけだ、と叹いておられる。梅棹忠夫等一些人很早以前就感叹日语没有正字法,说全世界文明国家里只有日语没有正字法。たしかに、「取り缔まり」か「取缔り」か「取り缔り」か「取缔まり」か「取缔」か、わたしたちも时々迷うことがある。「引越」についても同様だ。确实,是“取り缔まり”呢还是“取缔り”呢还是“取り缔り”呢还是“取缔まり”呢还是“取缔”,对此我们也常常迷惑。“引越”也类似。この「取缔」や「引越」のような例をYAHOOは「表记のゆれ」と呼んでいて、キーワード検索ではこうしたゆれにもちゃんと対応しています、と自慢している。上述“取缔”和“引越”等例子在雅虎被称为“书写的动摇”,并夸耀其关键词搜索对此也做了相应对策。日本语の表记システムは、高い自由度と多様性をもつ融通无碍の表记である。同时に、でたらめでゆれ続ける不安定な表记でもある。日语的书写系统是一种具有高度自由和多样性的融会贯通的书写方式。同时也是荒唐而持续动摇着的不稳定书写方式。梅棹さんは、このような日本语の不完全な表记システムを正して正书法を确立しないかぎり、高度情报社会に対応できなくなると危机感を抱いておられるが、みなさんはどう思われるだろうか 给大家推荐一个裙,这个裙的开始是九三五中间是八四九,末尾是三六七,按照顺序组合起来就可以找到,群内每天都有老师真人直播教学,授课方式轻松幽默,并且提供专业纠音辅导,还有一群热爱日语的小伙伴,一起学习进步,学习氛围浓郁,再也不怕一个人学习没有动力坚持啦,欢迎零基础的同学加入,如果你只是凑热闹就不要来了梅棹先生抱有一种危机感,称只要不确立正字法以纠正日语的此类不完整书写系统,就无法适应高度信息化社会。大家是怎么想的呢 正直言って、私にはそこまでの危机感はない。大多数の人々もそうではないだろうか だから、梅棹さんの主张にもかかわらず、日本语に正书法を确立すべし、という声は大きくならない。说实话,我并没有这么严重的危机感。大多数人也没有吧 因此,即便梅棹先生如此主张,确立日语正字法的呼声也成不了气候。